たむたむの配当金生活への道

草食系投資家のたむたむが、高配当株への投資で夢の配当金生活を目指します。

亡き母への想い

*この記事は投資とは全く関係のない、私のプライベートに関するものなのでご注意ください。

 

 

晴天の霹靂

この10月で母が他界してから10年になる。

60を目の前にして早過ぎる死だった。

 

最近、親ガチャという言葉が話題になっていたが、そういう意味では私は恵まれていた方だと思う。

 

母に対しては感謝の気持ちしかなく、ただ結局最後まで「ありがとう」という言葉を伝えられずに永遠の別れとなってしまったことを、とても後悔している。

 

母と私が血のつながっていないことを知ったのは大学卒業の直前だった。きっかけはパスポートを作るために戸籍抄本を取り寄せたことだ。

 

父に頼んだときに父が気の進まない返事をしたので不思議に思ったが、後日父からは戸籍抄本を送ったという連絡とあわせて、私が2歳の時に父が離婚して3歳の時に母と再婚したこと、母の希望でこれまで本当のことを言わなかったことなど、簡単な説明があった。

 

実際に戸籍を見ると、母の欄には見知らぬ名前が記されていた。

 

そのときは、今まで当たり前のように信じていたものが実は虚構だったと知り、大きなショックを受けた。ドッキリカメラどころの騒ぎではない。しかし、母が私を実の子以上に情熱を持って育ててくれたことは間違いない。

 

幼少期の記憶は曖昧でほとんど残っていないが、保育園の親子遠足で高熱だったのに母が来てくれたことや、両親が激しい夫婦喧嘩をしたときに、母が妹とともに私を連れて家を飛び出したことははっきり覚えている。

 

真実を知っても、母には「今までと何も変わらないよ」と優等生的な回答をしたものの、私の中の心の葛藤が消えることはなかった。

 

 

生みの親との再会

私を産んだ母はどうして私を置いて出ていったのか、一体どこで何をしているのか、考えても意味がないと思いつつ、どうしてもその思いを消すことができなかった。

 

私が30歳になったとき、母には悪いと思いながらも、ふと生みの親を探そうと思い立った。探偵事務所に相談したら、まず戸籍を遡ってみればいいと無料で教えてくれた。探してみれば意外と簡単に見付けることができて拍子抜けした。

 

私は関西出身で、生みの親も当然その近くにいるものと思っていたが、東京に住んでいることがわかり、28年振りに再会した。テレビ番組で「生き別れた親子の感動の再会」というのがあるが、そこまでの感動はなかった。あまりに非現実的で実感が湧かなかったのだ。ただ、離婚の経緯もよくわかり、心の整理ができた。

 

再会後もしばらくは定期的に会うなどしていたが、生みの親にも家族があり、おそらく会うことがだんだん負担になっていたんだろうと思う。生みの親とはだんだん疎遠になり、今は会っていない。

 

 

母の死までの時間

そうこうしているうちに母に癌が見つかった。発見されたときには食道がんから転移が進んでいて、手術は難しいということだった。今思えば、無理して手術をするよりは、抗がん剤で進行を遅らせながら、入退院を繰り返しつつも、ある程度普通の生活を送ることができてよかったと思う。

 

検査の数値に一喜一憂しながらも、癌が悪化せず落ち着いているように思えたので、家族で「完治しなくても癌とうまく付き合いながら生きていければいいね」と話していたが、徐々に数値は悪化し、標準的な治療は終了した。

 

希望を失わなかった母は怪しげな免疫療法に手を出したりもしていた。どれほどの効果があるかは疑問だったが、死を受け入れるためのプロセスとしてやむを得ないと思いながら、家族で見守った。

 

すべての望みは絶たれ、いよいよ母は緩和ケア病棟に入ることになった。苦しみを緩和し、静かに死を待つ場所だが、その病棟はとても明るく、看護師さんもとても親切で、穏やかな気持ちになれる場所だったのが幸いだった。

 

この頃になると、週末はできるだけ東京から関西の母のところに通った。母は急速にやつれ、祖母そっくりになっていき、薬のせいで眠ることが多くなっていた。

 

それでも、意識がはっきりしているときは、車いすに乗せて院内を散歩することができたので、親子水入らずの時間を過ごすことができた。母と会うたびに何度も「これまで育ててくれてありがとう」という言葉が口まで出かかったが、その言葉を口にした途端、それが母との別れを意味するように感じて、言うことができなかった。車いすを押しながら病棟の廊下を行き来するだけだったが、この僅かな時間はかけがえのないものだった。

 

母の死の丁度一週間前、母の病室に、父と2人の妹と集まり、一枚の書類にサインをした。母と私の養子縁組の書類だ。法律上は、父が再婚しても、父の子である私とその相手とは赤の他人のままだったのだ。妹たちも私が母の子ではないことをこの時に初めて聞いたようだ。書類上の手続に過ぎないが、この儀式を経て、ようやく私は母と本当の家族になることができたように感じた。

 

私が母と最後に会ったのは、母の死の前日だった。その日は腹水がひどく、とても苦しそうだったが、私は「また来週来るからそれまで頑張らなあかんで」とあえて明るい声で言い、病室を後にした。これが最後になるとは考えたくなかった。2年間の闘病生活だったが、父によれば母の最期はとても穏やかな表情だったという。

 

幼少期に母に甘えた記憶はない。それでも母は生まれたばかりの妹を抱えながら、生みの親と離れて心を閉ざしていた私に、戸惑いながらも全力で接してくれたことは想像に難くない。そして、私が大人になるまで母と血がつながっていたことがわからなかったくらい、一生懸命育ててくれた。私は本当に恵まれていたと思う。「ありがとう」と伝えることはできなかったが、この感謝の気持ちを忘れずにこれからも生きていきたい。